分離同盟
1840年代、急進派と保守派の考え方の相違はさらに大きくなった。両派はカトリック教会の役割、とりわけイエズス会の役割を巡って争っていた。
1844年、ルツェルンの保守派政府は中等教育の指導をイエズス会に委ねていた。ルツェルンのこうした教育制度は憲法違反ではなかったが、急進派はルツェルンがローマ教皇から受ける影響が大きくなり過ぎることを懸念した。急進派は義勇軍を組織しルツェルンを攻撃したが、ルツェルン保守派の抵抗にあった。
急進派と自由主義派に対抗するために、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、ツーク、フリブール、ヴァリス/ヴァレーら7つの保守派の州は「保護同盟」を結び、同盟の強化のために国外からの援助も求めた。1845年、自由主義派は「保護同盟」を「分離同盟」と見なし解散を要求した。盟約者団は自由主義派の州から十分な支持を集めるのに時間を要したが、1847年、盟約者団会議において「分離同盟」のような国内の同盟行為は違憲であるとし「分離同盟」の解散を決議した。
