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第二次世界大戦とスイス国民

“兵役のため7月3日まで休業します”戦時中、多くのスイス人男性が国境付近で兵役を行った。 (新しいウィンドウ)

“兵役のため7月3日まで休業します”戦時中、多くのスイス人男性が国境付近で兵役を行った© Federal Archives Bern

軍病院の手術室(1940年頃) (新しいウィンドウ)

軍病院の手術室(1940年頃)
© Theo Frey / Federal Archives

スイスのラジオ局は毎週、ジャン・ロドルフ・フォン・サリスによるドイツ語の番組とルネ・パイヨによるフランス語の番組を放送していた。これらの放送は広くヨーロッパで聴かれており世論の形成に大きな影響を与えた。

ドイツ語圏の新聞を含むスイスの新聞の大半は、連合国に同調していた。
多くの教会や他の組織は、ドイツやナチスに占領された国々から流入した難民の支援に奔走した。

パウル・グリュニンガーは、最もよく知られる難民支援者の一人である。ザンクトガレン警察署長だったグリュニンガーは、約3,000人のユダヤ人難民のスイス滞在を可能にし、そのために逮捕された。グリュニンガーの名誉が回復されたのは1995年、彼の死後、随分たってからのことだった。

1933年にドイツからスイスに逃れたユダヤ系ドイツ人のゲルハルト・リーグナーは、最初にユダヤ人の絶滅というナチスの計画を世界に伝えた一人であった。

スイス国民の大多数が国家社会主義に反対していた。最もナチスと親密な関係にあった国民戦線は1939年にはかろうじて2,300人の党員がいたが、1940年には解散させられた。

しかし、スイス人は不況の中、限られた労働市場で難民に職を奪われることを懸念し、諸手を挙げて難民を受け入れたわけではなかった。

当時の政府の閣僚や有力者の中には、ナチスに抵抗する勇気を持たず、ましてやナチスの味方だった者もいたのではないか非難されている。

1938年、スイス外国人警察の最高責任者ハインリッヒ・ロートムントは、ユダヤ系ドイツ人とその他のドイツ人を区別するためにユダヤ系ドイツ人の旅券に「J」の文字を刻印する「Jスタンプ」の導入を承認した。ロートムントは、スイスの生活様式に合わない大勢の亡命者が、国内にあふれるのを防ぐべきだという意見を支持していたが、同時にナチスのユダヤ人に対する扱いに対しては批判した。

第二次世界大戦中、スイスがとった立場には、さまざまなマイナスの側面もあった。特に批判されているのは、スイスが多くのユダヤ人難民の入国を拒否したことである。また、ナチスがユダヤ人から略奪した金をスイスの銀行が買い取ったことや、大戦中にスイスに預けられた銀行預金が戦後、亡くなった預金者の遺族に返金されなかったこと、またスイスがドイツに武器を輸出したために戦争が長引いたなどという非難は続いた。

20世紀末、これらのスイスへの非難は歴史学者のフラソワー・ベルジエが中心となった、調査委員会によって調査が進められた。2002年、ベルジエの調査委員会が公表した最終報告書は、スイスは多くのユダヤ人の入国を拒否しただけでなく、ユダヤ人を直接ナチスに送還し、数百万フランにおよぶの資金が銀行に預けられたまま消息不明金として放置されていたことを明らかにした。

「消息不明の財産」についての論議が起きる前には、この件に関する分析は単なる表面的なものに過ぎなかったが、ブルジョアのレポートで戦時中のスイスに関する詳細が明らかになり、戦時中のスイスに関してなされていたさまざまな論議にとって重要な報告書となった。

“スイスでは中立の意味が乱用されている。私達はまさに、独立という現実的、直接的なコンセプトを忘れ、抽象的なコンセプトから偶像を生み出そうとしている。危険が迫ったら、私達は中立に固執せず自由のために戦うべきである…”

ルネ・パイヨ(1894~1970)1940年1月1日ラジオ・ジュネーブの放送より

“スイス人は週に6日間、ナチスドイツのために働き、残りの1日はイギリスの勝利を祈る。”

スイスの戦時中のジョーク

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